東アジアの安全保障と日米同盟 -沖縄とのかかわり-
上杉勇司 / Yuji Uesugi 沖縄平和協力センター設立準備室
はじめに
ちょうど沖縄では名護市長選挙の投票日であった2月3日に、カンボディアでは初めての地方議会選挙が 行われていた。この模様を見守るため、12団体から369名の国際選挙監視員がカンボディアに集まった。その中に、先日来沖していた東ティモール次期大統 領候補のシャナナ・グスマン氏の姿があった。グスマン氏は、私と同様にアジア自由選挙ネットワーク(ANFREL)というアジアのNGO連合の一員として 当地を訪れていた。私は昨年の8月末に東ティモールで行われた制憲議会選挙の監視にも出かけているが、その際にグスマン氏とお会いしたことがある。そのとき彼は「苦しい時に支えてくれた友のために、そして地域の平和のために東ティモール人も協力を惜しまない」と述べ、次に我々が選挙監視活動を行う時には、 自ら馳せ参じることを約束してくれた。今回はその約束を果たしに来てくれたことになる。東ティモールは5月の独立を前に数多くの課題を抱え、騒乱によって 荒廃した国土の復興はその途についたばかりである。にもかかわらず、同様の苦渋を経験してきたカンボディア人の平和構築の努力を支えるために赴援したグス マン氏の姿からは、ユイマール(相互扶助を意味する沖縄の言葉)の精神が感じ取れた。苦しい時期に隣に寄り添い苦難と喜びを共有してくれる人こそ真の友人 であり、友情はこのような行為を重ねることによって育まれるのであろう。
復興進み平和を享受
ところで、私がカンボディアを訪れたのは、1998年の国会議員選挙に日本政府代表監視団の一員として参加して以来、4年ぶりだ。当時と比べ、首都プノンペンは着実に復興が進み、人々が平和を享受していることを実感できた。例えば、以前は空き瓶にガソリンを詰めて路上で販売する人々が多かったが、今では大型のガソリンスタンドが立ち並んでいる。交差点ごとにあったガソリンの路上販売に代わり、携帯電話を持った代金徴集係がボックスの中で待つ「簡易有料電話」が街の至る所で見られるようになった。4年前は自動車で農村を訪ねると村中の子供が駆け寄ってきたものだが、今では自動車も外国人も珍しくなくなり、誰からも特段の関心を寄せられず少々寂しい思いをした。カンボディアは、1998年の国政選挙の結果、人民党とフンシンペック党による連立政権が発足し、最大の実力者である人民党のフン・セン首相に国家運営の舵取りが任せられるようになると、治安は回復し、経済再生が進んだ。例えば、国民一人当りのGDPは253ドルといまだに最貧国の域は脱してはいないものの、1999年の実質経済成長率は6.9%、2000年は5.4%を記録している。一方、UNTAC(国連カンボディア暫定統治機構)が任務を終了し撤退した後もポルポト派残党による抵抗が続いていたが、政府軍がポルポト派強硬部隊の最大拠点を制圧すると残党は相次いで投降し、1999年初頭にはポルポト派は完全に消滅した。また、その他の反政府勢力も政府軍への統合あるいは武装解除が進み、現在国内に軍事的脅威は存在しない。このような国内情勢の安定化が評価され、1999年4月にカンボディアはアセアンに正式加盟を果たしている。
明石康国連事務総長特別 代表が率いたUNTACが1993年に初の選挙を実施して以来、カンボディアで選挙が実施されるのは今回で三度目になる。カンボディアの行政単位 には州(プロヴィンス)、郡(ディストリクト)、市町村(コミューン)に分けられるが、今回の選挙は最小の行政区である市町村の議員を選ぶものであった。従来の市町村議員の選出方法は与党による指名制で、地元の民意が反映されていなかった。よって今回の選挙は、民主化への画期的な一歩であり、民主主義の成熟度を測る貴重な試金石となるものだった。さらに、来年の国政選挙の趨勢を占う前哨戦でもあった。にもかかわらず、我が国では今回の選挙は、1993年の選挙のように国民的関心事にならず、あまり報道されなかった。そこで、この地方選挙の模様を選挙監視員の視点から簡単に報告したい。
国際選挙監視とは
その前に、国際選挙監視活動とはいかなるものか、について簡単に説明しよう。そもそも国際社会の支援を必要とする選挙は、国連などが選挙の組織から運営まですべてを取り仕切るものと、選挙の組織や運営は実施国の責任で行い、国際社会は監視団の派遣や技術・物的支援を行うものとに大別できる。1993年のカンボディアや2001年の東ティモールの選挙は前者に分類され、国連が選挙管理委員会を努めた。他方、カンボディアにおける1998年および今回の選挙は、後者の良い例で、いずれもカンボディア国家選挙管理委員会(選管)が選挙を取り仕切っていた。また、選挙監視活動の法的根拠はカンボディア国内の選挙法の中に求められ、監視員は選管から認可を受けるとともに、選管が定めた行動規範に従って監視活動を展開する。例えば、私の場合、今回の選挙監視は、選挙法の第9章「政党立会人と選挙監視員」第161条の「選管は、選挙監視活動への参加を目的とした国際NGO、各国政府および国際機関の代表団を招待する」といった記載に基づき、アジア自由選挙ネットワークという国際NGOを通じて参加申請を行った。他方、1998年の選挙監視では、外務省が行った選考を受け、日本政府代表として参加した。なお、監視員が選管の職員に対して指示や叱責を与えることや一連の選挙作業(有権者登録、投票、開票)に対して干渉することは認められていない。よって監視員は不正行為や不備を目撃しても、それを矯正する権限はなく、職員に対して婉曲に改善を促したり、報告書に目撃した不正行為を記載したりすることしかできない。どちらかといえば、監視員よりは観察員と表現した方が実際の活動内容や権限に近い。
私が監視した場所は、タイとの国境にあるバッタンバン州バノン郡の農村地域。カンボディアで最も美味しい米の産地として有名な所であるが、私が訪れた時はちょうど稲の収穫が終わり、村々の倉庫は満杯の米袋で溢れていた。とても1996年にポルポト派の残党が投降するまで反政府ゲリラと政府軍との間で激戦が繰り広げられた場所だとは思えない。今でも山間部では地雷除去作業は続けられているが、人々が生活する村落付近では地雷の心配はなくなった。今回私の通訳をしてくれたクン・チャイ氏は、私と同じ31歳。徴兵を逃れてタイ国境沿いの難民キャンプで生活し、ポルポト派のゲリラに加わった経験がある。難民キャンプで英語を学んだことが幸いして、1992年からはUNTACの下で難民帰還を手伝ったり、欧米系のNGOを渡り歩いたりした。国家公務員の月収が20ドル程度であったが、彼は日当15~20ドルでNGOに雇われた。この時期、妻を娶り子供が授かった。しかし、UNTACが撤退し、現地で活動する欧米系のNGOが減少する中で仕事にあぶれた。一時は血縁を頼りに政府軍の兵士になるが、長続きせず、タイ国境でガソリンなどの密輸で生計を立てていたところ、我が国のNGOと出会い、今ではそこで除隊兵士支援プロジェクトを担当している。波乱万丈の人生を送っているチャイ氏は正にカンボディア紛争の落とし子である。
EUと評価分かれる
話を選挙に戻そう。まず、選挙結果はフン・セン首相が率いる人民党の圧勝であった。人民党は1621選挙区中、約1600で第一党となり、得票率は1998年時よりも20%近く上昇して、全体の61%を占めた。一方1993年時に過半数を獲得し第一党となったフンシンペック党は、その後、人民党に主導権を奪われ、今回は「王家との繋がり」以外何ら独自色を出せず、得票率22%で惨敗した。投開票作業での深刻な不正行為は報告されておらず、この人民党の勝利は、民衆が実力のある指導者の下での安定した発展を望んだ結果であるといえる。だが、野党候補者が脅迫を受け、実際に約20名が選挙絡みで殺害されたという事実は看過してはならない。この点を考慮して欧州連合(EU)の監視団は、「今回の選挙は『国際標準』に達せず」と手厳しい評価を下した。だが我々アジア自由選挙ネットワークは、「完全に自由で公正な選挙とは言えない」と留保したものの、及第点を付け、カンボディア人の努力と健闘を称えた。このような欧州人とアジア人との違いは、選挙監視に臨む姿勢にも見られた。彼らは「民主主義」の伝統と各地での選挙監視の経験をもとに、民主化モデルを作成し、カンボディアの民主化がその道筋から逸脱しないように「指導」していた。他方、我々は隣人や友人として、カンボディア人と「共に汗を流す」という姿勢を大切にした。カンボディア人は誇りが高い。だから、一方的に何かを施すといった態度で接すると摩擦が生じる。我々は地元との良好な協力関係を維持したが、高圧的な態度でカンボディア人に接していたEU監視団と地元との間には軋轢が生じていた。
つまり、国際協力とは基本的に援助する側と受ける側との共同作業なのだ。ユイマールの精神が身内や友人といった仲間意識を共有する者の間で強く作用するように、国際協力も、友人同士による友情を深める行為としてとらえられる時、それは外交戦略や慈善ではなく真の助け合いとなる。しかしながら、今まで我々は自らの繁栄や懸案に目を奪われ、自分の役割を周囲との関係の中から見出すことを怠ってきた。アジアの隣人たちに起こっている出来事に無関心であったがために、彼らは我々にとって近くて遠い存在であった。